鎌倉・秋の散策【2014.12.5(金)】


このページの最後へ
アルバムINDEXへ

春の散策
に引き続き「銀の鈴」さんを中心とする皆様と一緒に晩秋の鎌倉を歩いてきました。当日は快晴でやけに青い空のもと、以外と訪れる人も多くはなく、ゆっくりと社寺めぐりを楽しむことができました。コースで見たモミジの紅葉はやや終盤近しの感じでした。

★今回のコース★

鎌倉駅東口(バス)=杉本寺・・(昼食)・・報徳寺・・華頂宮邸・・浄妙寺・・鎌足稲荷神社・・鎌倉宮(バス)=鎌倉駅


杉本寺

鎌倉幕府が開かれる500年近く前に建てられた鎌倉最古の寺。8世紀,関東地方を歩いていた行基が鎌倉の大蔵山(おおくらやま)から町を眺め、此処に観音像を置こうと決意、自ら彫刻した像を安置した。その後、観音像のお告げを受けたという光明皇后が734年(天平6年)に本堂を建立したといわれている。十一面観音が三体ありこれを本尊としている。1189年(文治5年)11月23日夜、失火により御堂が焼けてしまったが、しかし、観音様は何時の間にか庭の大杉の基に自ら避難され、立っていたので人々はその力に感心し「杉本観音」と呼ぶようになった。 




















   
▼ 逆川沿いのモミジ ▼ 



   


▼ 報国寺  ▼

1334年(建武元年)天岸慧広が開山し足利尊氏の祖父家時が開基。本尊は釈迦如来坐像。足利・上杉氏の菩提寺として多くの塔頭を抱えさかえた。京都の室町幕府に反抗した足利持氏が京都の幕府軍に負け瑞泉寺近くの永安寺(廃寺)で自害すると、息子の義久が1438年にこの寺で同様に自害した。(永享の乱)開山の塔頭である休耕庵跡に孟宗竹林を作って庭として現在はミシュランの星3個をもらい、高尾山と同じ、多くの観光客が訪れている。裏山には足利一族の墓と伝えられるやぐらが並ぶ。























華頂宮  ▼

伏見宮の分家として1868年(慶応4年)に創設された。華頂博信公爵邸として昭和4年に創られた建物で長谷の鎌倉文学館と相対する。現在は鎌倉市の所有物で内部の公開はされていません。 

 



▼ 浄妙寺  ▼

源頼朝の重臣足利義兼が1188年(文治4年)退耕行勇を開山とし、極楽寺という密教系の寺として建立した。のちに建長寺開山の蘭渓道隆の弟子月峰了然が住職となり臨済宗に改められ、寺名も浄妙寺となった。行勇は初め真言密教を学んだが、栄西の門下に入り臨済宗を修めた。(源頼朝、実朝、政子も帰依した高僧である)本堂の後ろには中興開基足利貞氏(尊氏の父)の墓が在る。本尊は釈迦如来像。












▼ 鎌足稲荷神社 ▼

646年(大化2年)に藤原鎌足が願い事があり鹿島神宮に参拝する事になった。その途中相模の国油井の里(現在の鎌倉市由比ケ浜)に泊まったところ夢に一人の白髪の御爺さんが現れ「わしはお前を影の様に付き添い守ってやる、だから今お前に不思議な力のあるものを授ける。これを地に埋めれば天下がよく治まるであろう」と言った。夢から覚めると枕元に鎌槍という鎌が置いてあった。鎌足は身を清め東に行ってその鎌を埋めようとすると白狐が現れ浄妙寺の裏山に案内した。そこに鎌を埋めお堂に倉を建て7日間御神楽を上げた。すると御神楽を舞った男に「今この土地に不思議なものが埋められた。これから鎌倉の郡は五穀が実って人々が安楽になり、天下がよく治まるであろう」と神のお告げをした。それを聞いた鎌足は神殿に昇ってつつしんで拝み、都に帰った。早速この事を天皇に申し上げると天皇はこの神社の領地を鎌足に与え、「以後、この地を鎌倉の郡と呼びなさい」と言った。鎌倉の名はこの話がもとだともいわれているが、しかしこの他 に大倉の松が岡に埋めたという話もある。



 

▼ 鎌倉宮 ▼

鎌倉宮は大塔宮護良親王(おおとうのみやもりながしんのう)を奉斎する神社です。 護良親王は延慶元年(1308年)に後醍醐天皇の皇子として御誕生になり、20歳にして比叡山延暦寺の天台座主となられました。当時の鎌倉幕府の専横な政治に後醍醐天皇は国家の荒廃を憂えられ、倒幕を決意されます。親王は還俗し、天皇の代わりとなって楠木正成らと幕府の大軍を吉野城や千里早城に引きつけ、また親王の倒幕を促す令旨に各地の武士が次々と挙兵し、足利尊氏が六波羅探題 を落とし、新田義貞は鎌倉に攻め込み、鎌倉幕府は北条氏一族と共に滅亡しました。親王はこの「建武中興」の功により  征夷大将軍となられました。しかしこの位を欲する足利尊氏との間で対立が深まり、遂に尊氏の奸策により逆賊の濡れ衣を着せられて宮中にて捕らえられ、建武元年11月、鎌倉に送られ、東光寺(現鎌倉宮)の土牢に幽閉されました。そして9ヶ月を経た建武2年 (1335年)7月、北条時行が残党を集め鎌倉に攻め入る「中先代の乱」が起こり、この戦いに敗れた尊氏の弟直義は逃れる際に、家臣淵辺義博に親王の暗殺を命じます。淵辺は建武2年7月23日の早朝、土牢内の親王の御首を刎ねてしまい、親王は御年28歳の若さで、その苦闘の生涯を終えられました。明治2年2月、明治」天皇は「建武中興」に尽くされ、非業の最期を遂げられた護良親王に遥かに想いを馳せられ、明治維新の大業はその御遺徳によるものと、親王の御遺志を高く称え永久に伝えることを強く望まれ、親王終焉の地東光寺跡に神社造営の勅令を発せられました。そして5ヶ月後の明治2年7月21日に、現在の鎌倉市二階堂の地に、神明造の本殿、入母屋造の拝殿を擁し、また明治天皇御自ら社名を「鎌倉宮」と名付けられ、創建されたのが、鎌倉宮です。

ちなみに、文部省唱歌「鎌倉」の六番歌詞は 

「鎌倉宮にもうでては つきせぬ親王(みこ)のみうらみに  悲憤の涙わきぬべし」

♪鎌倉(Mp3)

  

この写真はインターネットからお借りしたものです。▲



こんな光景に ▲



 土牢 ▲ 

この頁の先頭へ



アルバムINDEXへ 

トップページへ