秋の武蔵嵐山渓谷散2016.11.29

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京都の嵐山に似ているということから嵐山(らんざん)の名が付いた、埼玉県の嵐山渓谷を歩いてきました。紅葉のピークは過ぎやや晩秋の雰囲気が漂う感じでしたが、この日は天気が良く日に透けるもみじの紅葉はそれなりに綺麗でした。何日か前にテレビで、ドローンからの空中撮影や渓谷、紅葉の様子が放映されたこともあって多くの観光客が訪れていました。1週間前くらいが見ごろだったろうか?



▲ 歩き始めの遊歩道。



▲ 槻川の流れ。



▲ 水面が岩や木の葉に映る珍しい現象でした。

この現象をムービーで !




▲ 飛び石で対岸へ。



▲ 川を渡ろうとしたら写りこみが綺麗でした。写真を撮っている間に様子は変わりました。

写り込みをムービーで!















▲ 冠水橋を渡って少し上流に行くとこんなスポットがあります。

















▲ 展望台。

一休みして童謡・♪紅葉を聞く 



▲ 嵐山町名発祥の地の記念石碑。 



▲ 展望台からの眺め。



▲ 昔あった旅館の露天風呂跡。 


嵐山町ホームページより歴史の一部を抜粋

昭和のはじめに本多博士によって名付けられた「武蔵嵐山」。この時代は観光地としてたいへん賑わい、渓谷周辺には料理旅館の「松月楼」もあって、埼玉を代表する景勝地をひとめ見ようと、多くの人々が訪れていました。東武東上線の菅谷駅も昭和11年には「武蔵嵐山駅」に改名され、駅から観光客の長い列ができたほどです。このような時代背景の中で、昭和14年6月に、当地をひとりの女性歌人が訪れます。現代短歌の道を開いた代表歌人の与謝野晶子です。当時61歳であった彼女は娘の藤子さんと共に松月楼を訪れ、渓谷の自然などをテーマに「比企の渓」29首を歌いあげました。平成10年には藤子さんのご協力をいただき、細原の先端部に与謝野晶子の歌碑が建立されました。碑の表面には比企の渓26首目の歌として「槻の川 赤柄の傘をさす松の 立ち竝びたる 山のしののめ」という歌が彫られており、裏面には歌碑建立の由来が示されています。たいへん賑わった「武蔵嵐山」ですが、戦後は松月楼も本格的に営業されず、経営者が変わって「一平荘」と改名されましたが、ついに閉店してしまいます。............











▲与謝野晶子・歌碑(正面)



碑の後ろ。 

「槻の川 赤柄の傘をさす松の 立ち竝びたる 山のしののめ」





▲日に照らされたススキ。 

















▲綺麗な紅葉を探しながら歩いた散策でした。 


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