大巧寺は 鎌倉駅から 歩いて3分の所にある お寺です。別名「おんめさま」と呼ばれ、安産祈願の寺として知られています。「おんめさま」とは「お産女様」(おうめさま)が訛った言葉で境内に祀られている「産女霊神」を指します。安産を願う
妊婦の方が、日本全国 及び 海外からもお札を受けに来ています。また、境内には 季節ごとに咲く多種類の花々が 訪れる方の心を癒してくれます。
本覚寺▼
現在の本覚寺の山門がある場所の前には、夷堂と呼ばれる堂がありました。この夷堂は、源頼朝が開幕の際に、幕府の裏鬼門(南西)にあたる方向の鎮守として建てたとされています。佐渡に流された日蓮が一時この夷堂に滞在し、辻説法などの拠点としていました。その後に一乗院日出が日蓮にゆかりの夷堂を天台宗から日蓮宗に改め本覚寺を創建した言われます。後に身延山を再興した行学院日朝は、身延山への参詣が困難な老人や女性のために、身延山より日蓮の遺骨を分骨して本覚寺に納めました。本覚寺が「東身延」と呼ばれる理由です。
お寺は修復中です▲
夷堂▲
夷堂の御開帳▲
妙本寺▼
妙本寺は日蓮聖人を開山に仰ぐ、日蓮宗最古の寺院です。寺のある一帯は、現在は比企谷(ひきがやつ)と呼ばれ、鎌倉時代には比企能員一族の屋敷がありました。比企能員は源頼朝に仕えた御家人で頼朝の乳母・比企尼の養子にあたり、妻は源頼家の乳母で、娘の若狭局は頼家の妻となるなど、源氏とは深い関係を持つようになりました。こんなことから北条氏との間には対立が生じてきました。後に頼家が病気で倒れると、次の将軍の座をめぐって、千幡(後の源実朝)を推す北条氏と、若狭局が生んだ一幡を推す比企氏との間で争いが起こりました。能員は北条市討伐を謀ったものの、察知されてしまい殺害されました。比企一族は比企谷の小御所に篭って北条氏らの軍勢と戦っては敗れてしまいました。ただ一人生き残った能員の末子・能本は京都で順徳天皇に仕え、姪にあたる竹御所(源頼家の娘)が4代将軍・九条頼経の妻になったことから許されて鎌倉に戻りました。後に、菩提を弔うため日蓮に屋敷を献上し法華堂を建立したのがこの寺の始まりです。
総門▲
参道を行く▲
二天門の見事な彫刻▲
二天門をくぐって▲
祖師堂▲
M-先生から日蓮にまつわるお話を聞く▲
モミジの新葉▲
比企一族の墓▲
前田利家室塔▲
一幡之君袖塚▲
桜も散りぬ▲
日蓮聖人銅像▲
鐘楼▲
常栄寺(牡丹餅寺)▼
幕府に捕らわれた日蓮が鎌倉の町を引き回され、滝の口(藤沢の龍口寺)の刑場へ送られる途中、ここに住む老婆がぼたもちを差し上げたことが寺の由来です。日蓮は奇跡によって処刑をまぬがれますが、この法難のあった9月12日には老婆がつくったものと同じ胡麻をまぶしたぼたもちが振る舞われます。
由比若宮(元鶴岡八幡宮)▼
場所もわかりにくく思っていた以上に小さな神社、観光客にはほとんど知られていないようです。大軍を引き連れて鎌倉入りを果たした源頼朝はこの神社を訪れ、後に現在の鶴岡八幡宮のある地に移し「鶴岡八幡宮」となりました。鎌倉と源氏の本格的なつながりがここから始まった訳ですので、一見の価値は十分です。
かいひん荘▼
シンボルである洋館部分は大正13(1924)年に富士製紙社長の村田一郎邸として建てられました。戦後、昭和27(1952)年に旅館として開業、その後増改築を重ねて現在に至っています。七つある、鎌倉市の国登録有形文化財のひとつになっています。
路地裏の踏切より▼
鎌倉では珍しく線路が長い直線の場所です。
鎌倉文学館▼
あいにく展示替えのため、4月20日〜24日は休館日でした。緑の多い閑静な場所にありとても風情を感じました。次回にまた訪れるのがとても楽しみです。
加賀谷邸宅▼
ひときわ目を引く背の高い洋館 と趣のある和風の主屋が、和風庭園の豊かな緑と創り出す景観は、周辺のランドマークになっています。
甘縄神社▼
奈良時代に遡る鎌倉最古の神社で長谷の鎮守様です。かの名僧・行基が草創し、源頼義、義家、頼朝の崇敬も集め、源氏とのゆかりがとても深い名所のひとつです。北条時宗はここで生まれました。
境内から相模湾を望むことができます。
甘縄神明宮参道▲
甘縄神明宮▲
本殿▲
秋葉神社▲
北条時宗公産湯の井▲
光則寺▼
日蓮の佐渡配流に際し鎌倉幕府5代執権北条時頼は、弟子の日郎も捕らえ家臣の一人宿屋光則邸の土牢に監禁ました。しかし、監視役の光則は日朗と日蓮を私淑する様になり、日蓮の放免後自邸を寺に改め、日朗を開山に迎え創建しました。これに先立ち「立正安国論」が、宿屋光則の父・宿屋行時から北条時頼に建白されています。
山門手前右の石碑は、宿屋光則の屋敷跡であることを示しています。▲
山門より▲
本堂▲
「立正安国論御勘由来聖筆碑」▲
M-先生の曽祖父のお墓 ▲
日郎上人が監禁された土牢▲
エビネラン▲
クジャクも私たちを歓迎してくれました。▲
収玄寺▼
この寺は、江戸時代後期に日蓮の信者であった鎌倉時代の武士・四条頼基(四条金吾)の邸宅跡に創建された収玄庵に始まるとされています。その後、寺に改められ現在の寺号となりました。境内に東郷平八郎の揮毫による「四条金吾邸址」の石碑があります。
御霊神社▼
もとは関東平氏五家の始祖、すなわち鎌倉氏・梶原氏・・村岡氏・長尾氏・大庭氏の5氏の霊を祀った神社であったとされ、五霊から転じて御霊神社と通称されるようになりました。後に、鎌倉権五郎景政の一柱のみに祭神は集約され、祭神の名から権五郎神社と呼ばれました。
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極楽洞
長谷駅と極楽寺駅の間にあるトンネルで、坑門はレンガ造りで建造時代とほとんど変わっていません。また、馬蹄形が美しく、トンネルと電車+桜・紅葉が合致したカメラスポットです。トンネルの開通に難儀し、鎌倉市内への乗り入れが大幅に遅れました。
↑極楽寺
鎌倉では珍しい真言律宗の寺院です。建立したのは北条義時の三男・重時ですが、工事半ばに重時は亡くなりその子・、長時と業時が父の志を継いで完成させたものです。良観房忍性が招かれて開山となりました。最盛期には七堂伽藍を備え、大小49の支院があり、病院施設もありました。忍性はこの広大な境内に、慈善救済の大事業を営んでいったのです。忍性は生き仏と仰がれていましたが、新田義貞の鎌倉攻めの際の戦火で、寺の大部分はことごとく焼失してしまいました。今では昔の面影は有りませんが、本堂前にある薬草をすり潰した石臼と石鉢が、忍性の大事業を物語っています。
なお、境内での写真撮影、スケッチも禁止です。
極楽寺駅 ▲
この電車で藤沢駅に向かいました。 ▲
皆様お疲れ様でした。春の花が少なくなった時期とは言え、人・ひと・ヒトごみを避けられた分えって、じっくりと鎌倉散策を楽しむことができた思っています。ありがとうございました!
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