鎌倉・春の散策【2014.4.11】


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湘南藤沢を拠点に介護サービスやボランティア活動で活躍されている団体「銀の鈴」さんの行事の一つ「鎌倉散策」に、昨年の春以来2度目の参加をさせていただきました。会員の方々を中心に、会と関係のある方々を交えた11名のメンバーで鎌倉駅からスタートしました。自分が自宅を出た時はやや小寒い陽気でしたが、鎌倉駅に着いた頃には日も射して絶好の散策日和となりました。鎌倉と言えば自分の家からも1時間半ほどで行けるのに「人、ひと、ヒト」のイメージが強く、普段は出かけるのをためらいがちでしたが、おかげ様で、今回のコースを歩いて新しい鎌倉(?!)に触れることができました。歴史も宗教も、何の知識もありませんが、社寺を巡り山道を歩き、時には何となく目に留まる山野草や花々、とても気持ちの和む1日でした。朝比奈切通しとの組み合わせで、正に鎌倉の静けさと自然をも十分に楽しむことができました。世話役・ガイド役のTさんを初め、皆様本当にありがとうございました。これからも同じような催しはぜひとも長く続けて楽しんでください。



★コース案内★

鎌倉駅東口(バス)−泉水橋バス停・・・明王院・・・大慈寺跡・・・光触寺・・・梶原大刀洗水・・・朝比奈切通し・・・熊野神社・・・朝比名切通しに戻り・・・朝比奈バス停(解散) 

解散後は、バスで大船駅へまたは鎌倉駅への2組に分かれました。 
* 朝夷名=朝比奈ですが、当ページでは
「朝比奈」を使用しました。

  

 

  ▼ 明王院 はこんなお寺です。







▲ このお寺は境内での撮影は禁止されています、山門(左)と少し右にある小さな門の外側からの画像です。 ▲




 ▲ 今回はTさんの計らいにより、庭園だけは撮影OKをいただきましたので、山門を出る前にミツマタ(左)と
桜の古木(右)を撮らせていただきました。



 
▲ 空を見上げると飛行機雲が。



▲ 民家の西洋シャクナゲ。


  
▲ 八重雪柳とでも言いたい白い花、多分「シジミ花か」?



大慈寺跡 昭和三年(1928)三月建之 鎌倉青年団

大慈寺は、1212年に、源実朝が建てた寺で、またの名前を新御堂と言いました。1214年7月27日に、大がかりな供養が行われ、頼朝の妻の政子と将軍実朝が、格式張って参列いたしました。その後1257年に、将軍宗尊親王の時、本堂、丈六堂、新阿弥陀堂、釈迦堂、三重の塔、鐘楼などことごとく修理を加えられて、その美しさは、ほとんど前の建物以上である、 と吾妻鑑に書いてあります。当時の素晴らしさが目に浮かぶでしょう。 その後740年過ぎた現在、ひとかけらの礎石をも見付けることができません。本当に時代の変化の大きさには驚かされます。



▲ ツルギキョウ(別名ツルニチニチソウ)


 
▲ 林の中の白い桜。



▼ 光触寺

光触寺はもともと真言宗の寺でしたが、全国を行脚し踊念仏を唱えて民衆の信仰を集めた一遍上人を開山に迎え、時宗に改め念仏道場として栄えました。本尊の運慶作といわれる頬焼阿弥陀(ほほやけあみだ)は、盗みの疑いをかけられた女童の身代わりになり頬に焼印が残ったという伝説があります。境内の塩嘗地蔵(しおなめじぞう)は六浦の塩売りが朝この地蔵にの塩をお供えすると帰りには地蔵が嘗めてしまい無くなっていた為この名がつきました。



▲ 光触寺山門。


 
▲ 境内にて。


  
▲ 本堂。



▲ 塩嘗地蔵(六地蔵の奥)。 
           


▲ 長い時の流れを感じさせます。


 

▲  一遍上人像。



▲ 青空と八重桜。


 
▲ 寺の近くから見た山の中の桜。



▲ 近くの民家の垣根。


▼ 十二所神社

社伝によれば弘安元年(一二七八)の創建と伝える。 相模風土記稿に「按ずるに光觸寺境内に熊野十二所の社あり、是を村の鎮守とす」とある。「十二所権現社再建記」によると、天保八年明王院別所恵法が社頭再営を志し、氏子三十余軒により天保九年(一八三八)、現在地に再建されたことが判る。 明治維新により社号を十二所神社と改称し、明王院の所管に属したが、明治六年村社に列格された。



▲ 社殿 右に半分見えるは山の神。


  
▲ 岩盤の祠、疱瘡神と宇佐八幡。



▲ 中央の彫刻は「波とたわむれるウサギ」とやら。



▲ 左側には絵馬が飾られています。



▼ 切通庚申塚

十二所神社信号から右手の細い道に入ってほんのわずか、左手に庚申塚が見えます。道標は気にしても塚は高い位置にあるのでつい見過ごしてしまいそうですが、鎌倉に詳しいTさんのおかげです。岩の上にあるのと思いきや、ある人曰く、鎌倉幕府の時代にはこの辺りは鎌倉の東境で土塁はその頃に防塁として造られたようです。ひとつには、鎌倉幕府が滅びるとふたたび静かな山あいの里に戻り、辺りを見渡せるこの土塁の上に庚申塔を祀るようになったのであろうと。(もちろん全く違うという人もいますが、それなりの想像だと思います)



▲ 刻まれた梵字や文字から判断すると。

左端は種子(梵字)にキリークを刻むので----------   阿弥陀如来を主尊とする庚申塔
中の二つは青面金剛と刻まれ-------------------   青面金剛を主尊とする庚申塔
右端は馬頭観世音の文字で---------------------  馬頭観音を主尊とする庚申塔
                 
 
梶原太刀洗水
 
梶原景時が上総介広常を討ったあと、 この湧き水で太刀の血を洗い流したという。朝夷奈切通の岩肌から湧き出る鎌倉五名水の一つ。広常は、源頼朝の挙兵の際に2万騎の兵を率いてに従った武将。しかし、1183年(寿永2年)、頼朝の命を受けた梶原景時に暗殺された。梶原景時が広常の屋敷に赴き、酒のもてなしを受け、二人で双六に興じているときに梶原景時が広常に襲いかかって首をとったといわれている。



▼ 朝比名切通し

朝比奈切通しは鎌倉七口(三方を山に囲まれた鎌倉への七つの入口)のひとつで、朝夷奈切通しとも呼ばれる。1241年(仁治2年)4月から鎌倉幕府執権、北条泰時が命じて作らせた切通しである。現在は、鎌倉市十二所から横浜市 金沢区朝比奈町を結ぶ遊歩道となっている。金沢六浦津から鎌倉へ抜ける重要路線と言うことで執権泰時自ら工事を行ったと言われている。 峠の頂上付近(鎌倉市と横浜市の市境)の辺りが「大切通し」それより金沢寄りを「小切通し」と言い、1969年(昭和44年)6月5日に「朝比奈切通」として国の史席跡に指定された。 鬱蒼とした森の中に有る切り通しは、現在でも当時の趣を感じられる。 工事に際しては、泰時が自ら土石を運び、着工に寄与したという。伝説では、朝比奈三郎義秀(和田義盛の三男)が一夜にして切り開いたことから朝比奈の名前が付くといわれている。 切り通し途中にある熊野神社 (横浜市金沢区)は、鎌倉の鬼門の守り神として建てられたといわれる。現在は、切通しは幹線道路からは外れ、歩行者のみが通行できる静かな遊歩道となっている。切通しに代わる道路として、1956年(昭和31年)切通しの北側に 神奈川県道204号金沢鎌倉線 が開通しており、朝比奈峠と呼ばれている。ウィキペディア



▲ 朝比名切通しの入り口にて。


  
▲ 昭和16年3月に建てられた朝比名切通碑と小滝小滝は朝比名三郎義秀の名にちなんで「三郎の滝」と呼ばれています。





▲ 歩き初めはこんな感じです。



▲ 道端に石仏も見えます。


  
▲ 途中から頂上付近まで、岩畳の地形が続きます。



▲ 切通し頂上付近にて(右側のえぐれた部分は、当時のものでなく後の採石場跡ではないかと言われています)。



▲ 岸壁に彫られた石仏。



▲ 落石注意の場所も何か所かありますよ!


  



▲ 峠をわずかに下ると横浜市に入り、熊野神社に向かう分岐点に到着です。周りははうっそうとした杉林が広がります。熊野神社に寄っ場合は、神社からこの地点に戻るのが通常のルートのようです。切通しはさらに続きます。


▼  熊野神社

源頼朝が鎌倉に入府後、朝比奈切通し開削にあたって鎌倉の鬼門鎮護の為、勧請されたと伝えられている。古来、安産に霊験あらたな神として信仰され現在は浄明寺地区の鎮守である。平成になり立て替えられた総檜造りの神社で杉木立の中、静かにたたずんでいるパワースポット。


▲ ハイキングをしているとよく杉林の中を歩くことがあります。ほとんどは薄暗く下生えもなく、杉の枯葉や枯れ枝ばかりが目につくのが普通で、杉林は嫌いでした。この一帯の杉は程よい間隔で植えられているし、今回の散策は時期的にも良かったのでしょう、シダ類を初め山野草や低木の緑がとても綺麗でした。オゾンを思い切り吸って森林浴も十分楽しめました。神社の周りに腰をおろし、日差しに当たりながら、または避けながらランチタイムを取りました。朝比奈切通しをこれから歩く方、ぜひこの神社にも立ち寄ってみてください。切通しから分岐した道はなだらかです。しいて言えば、この階段がやや急な位です。





▲ ふたたび切通しに戻ってきました。







▲ 切通し出口付近にも石仏があります、もう少し歩いてバス停へ、お疲れ様でした!


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